アジアの歴史 まとめ


開戦前の英領マレー
長年イギリスの植民地支配下に置かれていたシンガポールは、日英同盟の破棄以降イギリス軍によって防御設備の強化が進められ「東洋のジブラルタル」とも称されていた。海に面した南側には戦艦の主砲並みの15インチ(38センチ)砲をはじめとする重砲群とトーチカ群が構築され、さらに多数の戦闘機群が配備されて難攻不落の要塞と言われていた。北側のジョホール海峡側および同じく植民地であるマレー半島におけるイギリス軍の防備は手薄であったが、広大なマレー半島そのものが天然の防壁となると考えられていた。上陸可能地点であるタイ領内のシンゴラ(ソンクラ)からシンガポールまでは1,100キロの距離があり、マレー半島を縦断する道路は一本道で両側には鬱蒼たるジャングルとゴム林が広がっていた。さらに半島には大小約250本の河川が流れ、南に撤退するイギリス軍が橋梁を破壊すれば容易に日本軍の進撃を阻止できると考えられた。その間にイギリス軍はシンガポール北側の防備を強化することができると考えていた。

イギリス軍は国際情勢の悪化を受けて、東南アジアにおける一大拠点(植民地)であるマレー半島及びシンガポール方面の兵力増強を進めており、開戦時の兵力はイギリス兵19,600、インド兵37,000、オーストラリア兵15,200、その他16,800の合計88,600に達していた。兵力数は日本軍の開戦時兵力の2倍であったが、訓練未了の部隊も多く戦力的には劣っていた。軍の中核となるべきイギリス第18師団はいまだ輸送途上であった。

◇◇◇◇

1529年(フィリピン) サラゴサ条約でフィリピン諸島をスペイン領有とした。スペインはフィリピンをアジア進出の拠点とした。
1543年 鉄砲伝来。種子島にてポルトガルより。
1549年 キリスト教伝来。ポルトガルより派遣されたイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによる。
1571年(フィリピン)マニラ市を植民地首府とし、フィリピン諸島の大部分が征服され、スペインの領土となった。これ以降、約250年間、マニラとアカプルコ(メキシコ)をつなぐガレオン貿易
1602年(インドネシア)オランダ東インド会社がジャワ島に進出し、オランダによる植民地化の時代が始まる。

1775年(清)
ジュンガル征服(清・ジュンガル戦争)にともなってその支配下に入るに至り、「ムスリムの土地」を意味するホイセ・ジェチェン(Hoise jecen、回疆)、「故土新帰」を意味するイチェ・ジェチェン(Ice jecen、新疆)などと清朝側から呼ばれた。

1776年7月4日 (アメリカ)イギリスから独立(独立宣言)
1786年(マレーシア) シャムの攻撃を恐れたケダ・スルタン国は、非常時におけるイギリスによる兵力援助の約束と引き換えに、イギリス東インド会社にペナン島を賃貸

1789年 フランス革命

1821年 - 1837年 パドリ戦争(インドネシア)
従来イギリスがアチェの独立を支援していた為、オランダはスマトラ島北部のアチェ王国を手にすることが出来ずにいた。しかし、イギリスが政策を転換して英蘭協約を結び、イギリスがマラッカを含むマレー半島側(インドのコーチンを含む)、オランダがアチェを含むスマトラ島側(バンカ島、ブリトゥン島を含む)を領有するという形の植民地交換が決められた。
1825年 - 1830年(インドネシア)ジャワ戦争オランダはミナンカバウ地方を平定したことで、ここを西スマトラ州として強固な植民地支配体制に組み込むとともに、コーヒーの強制栽培制度を導入するなど、植民地経済経営にも着手した。
1826年(マレーシア) イギリスとシャムがバーニー条約を締結し、イギリス領マラッカ海峡植民地成立

1840年(清)アヘン戦争
1842年(清)南京条約を締結(●清は賠償金を支払う。●清は香港島を割譲し、イギリス王室の直轄領となる。)
1843年、中国で罪を犯した外国人を裁けず( 領事裁判権 )、輸入品の税を決めること( 関税自主権 ) もできない不平等条約が結ばれた。
こうした不平等条約は、アメリカやフランスとも結ばれ、中国の半植民地化 が始まった。
1853年 米国ペリー艦隊 日本にくる。
1854年(中国)、冊封国暹羅(シャム)が朝貢を廃止すると共に不平等条約のボーリング条約を結んだ
1856年から1860年にかけて:アロー戦争 清とイギリス・フランス連合軍との間で起こった戦争
(同時期には、国内でも洪秀全率いるキリシタン集団・太平天国による太平天国の乱(1851年 - 1864年)、捻軍の反乱(1853年 - 1868年)、ムスリム(回族)によるパンゼーの乱(1856年 - 1873年)や 回民蜂起(1862年 - 1877年)、ミャオ族による咸同起義などが起こり、清朝の支配は危機に瀕した。穆彰阿の「穆党」の中から曽国藩が頭角を現し、李鴻章や左宗棠と湘軍を率いて鎮圧にあたった。1861年、同治帝が即位すると穆彰阿は失脚し、皇母西太后による垂簾朝政下で曽国藩・李鴻章ら太平天国の鎮圧に活躍した「穆党」の漢人官僚が力を得て北洋艦隊などの軍閥を形成していった。)

1858年
日米修好通商条約締結、安政の大獄
ロシア帝国東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーが締結したアイグン条約以後の2年間は清露両国の雑居地であった外満州(現在の沿海州)を、正式に譲る事になった。特に、ロシアが沿海地方に軍港ウラジオストックを建設してロシア太平洋艦隊を常駐させ、シベリア鉄道建設によって大規模な兵の陸送を迅速化させようと計画したため、日露戦争の原因ともなった。その後もロシア革命時のシベリア出兵(1919年)では極東共和国の帰属を巡って日露間で紛争地となった。
対越南(ベトナム)宗主権を維持しようとして清仏戦争( - 1885年)が起きたが、清仏天津条約によって冊封国越南はフランスの植民地となった。1886年、緬甸(ビルマ)は3度目のイギリス軍の侵略を被り滅亡した。清への臣従を拒む勢力が擡頭した朝鮮に対しては、宗主国としての内政権を揮い壬午事変(1882年)、甲申政変(1884年)を鎮圧したが、1894年に日本が起こした甲午改革では、鎮圧を企図したものの日清戦争( - 1895年)で敗北し、下関条約によって遼東半島および福建台湾省(中国語版)の割譲と朝鮮が自主国であることを承認させられ、建国以来維持していた李氏朝鮮に対する広範な支配権も失った(ただし朝鮮・大韓帝国における清領租界は日韓併合後も清国が確保している)。
1860年、イギリス・フランス連合軍は北京を占領し、10・11月にロシア公使ニコライ・イグナチェフの調停の下に、英仏遠征軍司令官と恭親王との間に北京条約が締結された。この条約により清は、天津の開港、イギリスに対し九竜半島の割譲、中国人の海外への渡航許可などを認めさせられた。最後の渡航許可というのは中国人労働者を劣悪な条件で移民させる苦力貿易を公認するものであ




1860年 天津ら11港の開港・イギリスに対する九龍半島南部の割譲を清に認めさせる北京条約を結んだ



1861年(仏領インドシナ)に再度フランス艦隊はサイゴンに上陸し、コーチシナ一帯を占領。
1863年(仏領インドシナ)にカンボジアがフランスの保護国となった.。

*11月 (米国) Abraham Lincoln大統領 「人民の、人民による、人民の為の政治」(Government of the people, by the people, for the people)スピーチ




1865年
*(米国)南北戦争終わる(北軍犠牲者 74,000人 南軍 110,000人)

1867年6月(仏領インドシナ)コーチシナ東部3省の安全保障上の不安を解消するために西部3省を攻略[、6月25日にこれを植民地として一方的に宣言した.
徳川慶喜が大政奉還: 王政復古の大号令で明治新政府が樹立

1867年(清) ロシアの支援を受けたヤクブ・ベクは新疆ウィグルにブハラ・ハンという独立国を設立
(イギリスは承認し武器供給開始。1872~1874年 イギリス・ロシアと通商条約締結 )

1868年(明治1年)10月23日 改元 明治元年に

1870年 - 1871年 普仏戦争(プロイセン vs フランス)

1871年(明治4年)日清修好条規を結む。
清国側:李鴻章
相互に開港、相互に領事裁判権(治外法権)を認める。
琉球藩を置く。


1874年 (マレーシア)イギリス領マラヤ成立。錫鉱床の開発が進む。

1874年(明治7年)台湾に出兵した(征台の役)。
1875年(明治8年)に樺太・千島交換条約を結び、樺太をロシア領、千島列島を日本領と定めた。また小笠原諸島・尖閣諸島・竹島も日本の領土とし、日本の領域をいったん確定した。
1876年(明治9年)江華島事件が勃発して日朝修好条規(江華条約)を結んで朝鮮を開国させた。
1877年 西郷・副島・後藤・板垣・江藤ら5参議が下野したのち 西南戦争


1878年(明治11年)に外務卿・寺島宗則の下でアメリカとの間で税権回復の交渉が成立したが、イギリスなどの反対により新しい条約は発効しなかった。
1879年(明治12年)沖縄県を設置
1880年(明治13年) 刑法・治罪法(刑事訴訟法)公布 (民法は1898年)

1881年 李鴻章 朝鮮・ベトナム等の朝貢国の管轄を、清の礼部から北洋大臣へと移管し、朝鮮の内政や外交への干渉が強まり、朝鮮の属国化が進める。

1882年(仏領インドシナ)にフランス軍がトンキン地方を占領し(トンキン戦争)
1883年(仏領インドシナ)の第一次フエ(ユエ)条約(アルマン条約、癸未条約)・
1884年(仏領インドシナ)の第二次フエ(ユエ)条約(パトノートル条約、甲申条約)によってベトナムを保護領化
1884年(仏領インドシナ)の新条約でノロドム王は実権を完全に失い、カンボジアはフランスの保護国となった
1884年 - 1885年の清仏戦争
1885年に台湾を福建省から分離して台湾省(1885年-1895年)を新設した。 。
1888年(仏領インドシナ) 1872年頃よりラオスは複数のチン・ホー族(紅旗軍、黄旗軍、条旗軍、黒旗軍)による来襲を受けていた(ホー戦争)が、宗主国のタイは自国を守るのに精一杯で、1887年6月に刁文持率いるホー族の襲撃からルアンパバーン国王ウン・カムが、フランスに救出されるという事件が起こった。フランスはタイとの暫定協定によりフランスがタイ保護領シップソーンチュタイ(ディエンビエン省・ライチャウ省・ソンラ省)を自国の保護領とした。
1888年7月(マレーシア) イギリス北ボルネオ会社により統治されるイギリス保護国北ボルネオが成立
1889年 大日本帝国憲法が制定。
大隈重信外相がアメリカ・ドイツ・ロシアとの間に新条約を調印
1893年(仏領インドシナ)仏泰戦争。併合を不服としたタイは戦争を起こしたが敗北。フランスのラオス併合が確定した。この結果、ビルマのシャン州に進出していたイギリスと領土を接することになり、雲南問題が発生したが、1896年にシャム王国に関する英仏間の宣言とその他の事項を発表して戦争を回避した。

1893年(明治26年) 第5回帝国議会 陸奥宗光外相 演説
条約改正の目的を達せんとするには、畢竟我国の進歩、我国の開花が真に亜細亜州中の特別なる文名、強力の国であると云う実証を外国に知らしむるに在り。 


条約改正が悲願!!笑い泣き


1894年(朝鮮) 東学党の乱が各地で始まる。
朝鮮政府は鎮圧の為、清に出兵依頼。李鴻章は巡洋艦2隻、陸兵2000名を派遣。
出兵後の6月6日、清は天津条約に基づき日本に出兵を通知。 日本側も6月7日に出兵を通知。6月10日 海軍陸戦隊 430名ソウルに入場。6月16日陸兵 4000名 仁川に上陸。
日本の対応、、、早いびっくりびっくり
そして、1か月後の、、


1894年7月16日 日英通商航海条約:
外務大臣陸奥宗光は、イギリスとの間で領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を内容とした「日英通商航海条約」の調印に成功。爆  笑 関税自主権の完全回復は、後に持ち越された。ショボーン  ロシアの朝鮮半島への進出を懸念するが、清国は頼りないと思い始めた英国を日本が味方につける。



1894年(明治27年)日清戦争が勃発

黄海海戦は、
清国: 戦艦 2 巡洋艦 10 に対して 日本: 戦艦 0 巡洋艦 8 しかない。
いつも貧乏だからね。 よく勝てたよね。

(写真は、清国に定遠、鎮遠 あり、と恐れられた当時の最新鋭の戦艦 定遠

1895年4月 下関条約によって以下の内容を清に認めさせた。
朝鮮の”完全無欠な自主独立の国”という承認/領土として遼東半島、台湾、澎湖諸島の割譲/賠償金(2億両(テール)、日本円で3億1千万円)を獲得台湾は、この時に日本の領土になったんですね)
重慶・長沙・蘇州・杭州の4港開港
下関条約の結果、清の朝鮮に対する宗主権は否定され、ここに東アジアの国際秩序であった冊封体制は終焉を迎えた。

しかし、遼東半島はロシア、フランス、ドイツの三国干渉により返還させられた(代償として3000万両を獲得)結果、国民に屈辱感を与え報復心が煽られた(臥薪嘗胆)。



1896年にシャム王国(タイ)を緩衝地帯としてお互いに干渉しない事を英仏間で宣言とその他の事項を発表して戦争を回避した。(タイがアジアで唯一の独立を保てたのは、こういう理由ですね。 それ以前と比べて、領土は大分狭くなってしまいましたが。)


1894年〔明治27年〕(朝鮮) 東学党の乱が各地で起こる。
 
1897年(明治30年)李氏朝鮮は、大韓帝国として独立


1898年(明治31年)民法公布(商法は1899年)

1898年(フィリピン)のパリ条約によりフィリピンの統治権がスペインからアメリカ合衆国に譲渡された。
1899年6月12日(フィリピン) 、初代大統領エミリオ・アギナルドの下、独立宣言がなされ、フィリピン第一共和国が成立した。フィリピン革命は、普通1896年8月から1899年1月までを指す。
1899年(フィリピン) 1月21日にフィリピン共和国がフィリピン人によって建国された。5月18日にサンボアンガ共和国が建国された。
フィリピン共和国の建国を承認しないアメリカによる植民地化にフィリピンは猛烈に抵抗したものの、米比戦争で60万人のフィリピン人がアメリカ軍により無残に虐殺され、抵抗運動は武力鎮圧された。

1899年(仏領インドシナ)シエンクワーン王国(シエンクワーン県・ゲアン省)が、フランス保護領ラオスのルアンパバーン王国とフランス保護領トンキンに分割併合された。同年4月15日にはフランス大統領令でラオスを編入し、インドシナ連邦が成立。
1899年(フィリピン)フィリピン史では、1899年2月から1902年7月までをフィリピン・アメリカ戦争期として位置づけている。
1901年(フィリピン)アギナルドが米軍に逮捕されて第一共和国は崩壊し、フィリピンは旧スペイン植民地のグアム、プエルトリコと共にアメリカの主権の下に置かれ、過酷な植民地支配を受けることとなった。
1902年(明治35年)イギリスとの間に日英同盟
1903年(フィリピン)にサンボアンガ共和国も崩壊したが、モロの反乱(英語版)は1913年まで続いた。
1904年(明治37年)2月8日から1905年(明治38年)9月5日 日露戦争
ポーツマス条約の内容は以下の通りである。
ロシアは日本の韓国においての政治・軍事・経済の優先権を認める
清領内の旅順、大連の租借権および、長春以南の鉄道とその付属の権利を日本に譲渡する。
北緯50度以南の樺太(すなわち南樺太)とその付属の諸島を譲渡する。オホーツク海、ベーリング海の漁業権を日本に認める。
1905年(明治38年)、韓国統監府初代統監には伊藤博文が任命されたが、1908年(明治41年)に辞任
1906年(ポーツマス条約で獲得した遼東半島南部(関東州)および長春以南の東清鉄道に対し、それぞれ関東都督府、南満州鉄道株式会社(満鉄)が設置
1909年 英泰条約(英語版)によってクダ・スルタン国はイギリスに移譲されイギリス領マラヤになる。Unfederated Malay States

1910年(明治43年)には日韓併合条約を結んで大韓帝国を併

1911年日米通商航海条約を締結、イギリス、ドイツ、フランスおよびイタリアとも同内容の条約を締結した。外務大臣小村壽太郎は関税自主権の全面回復に成功。不平等条約を対等な国家間条約に改善する条約改正の主要な部分が完了、日本は長年の課題を克服し、名実ともに西欧諸



”日清戦争で台湾を獲得し、日露戦争で辛勝して、ようやく不平等条約を解消できた。
 国力が最重要な、植民地にされるか、するか、の二択しかない時代ですね。”

1911年10月10日・・・・武昌(ウーチャン) で革命軍が反乱を起こす ( =辛亥革命の始まり ) 。 
政府軍隊や役人の中にも革命軍に参加する者が出て、革命は広がった。 

1912年(中国)1月1日・・・・孫文は臨時大総統となり、南京を首都とする中華民国の成立を宣言する。 
清政府は、北部の軍閥・袁世凱に軍事・政治の権力を与えた。 袁世凱は、革命軍に戦争継続の力がないのをみて、清皇帝の退位を条件に、自ら臨時大総統になることを革命側に承諾させた。
清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)は2月12日、正式に退位し、ここに清は276年の歴史に幕を閉じ、完全に滅亡した。
1914年(大正3年)には第一次世界大戦が勃発
1916年(フィリピン) フィリピン議会議員マニュエル・ケソンの尽力で、アメリカ合衆国議会はジョーンズ法で自治を認めフィリピン自治領が成立した。

1917年 11月 ロシア革命勃発

1920年(大正9年)以後は戦後恐慌

1920年(大正9年)国際連盟設立。日本は常任理事国として参
1920年代に米国は、フィリピンにRCAが広域無線局を設置、ここを中継地点として香港経由で中国と交信した。

1921年(大正10年)11月11日から1922年(大正11年)2月6日までワシントン軍縮条約アメリカ合衆国のワシントンD.C.で開催されたワシントン会議この軍縮条約では、日本の中国進出を牽制する内容や日英同盟破棄も含まれていた

1922年 ソビエト連邦成立(帝政ロシアの終焉)

1925年(大正14年)には、身分や財産によらず「25歳以上の成人男子全員」に選挙権を与える普通選挙法を成立させた。普選は、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった。
1927年(昭和2年)(第一次)南京事件。緊急勅令で金銭債務の支払延期等公布施行(モラトリアム)。金融恐慌対策のため第53回臨時議会招集。山東出兵#第一次出兵。東方会議。

1928年(昭和3年)最初の男子普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)。三・一五事件:1道3府27県に共産党・労農党・評議会・無産青年同盟の関係者など千数百名を治安維持法違反容疑で検挙する。帝国特別議会にて治安維持法の改正案を提出して審議未了となる。第2次山東出兵を決定。済南事件。張作霖爆殺事件・満州某重大事件。緊急勅令で治安維持法改正公布施行(死刑罪・目的遂行罪追加)。

1928年 
8月27日 パリ不戦条約の調印 (日本国憲法の原型ですね!!)
(第1条)国家政策の手段としての戦争の放棄
(第2条)国家間の紛争解決手段としての武力行使の違法化
アメリカ起案による。
アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、日本といった当時の列強諸国をはじめとする15か国が署名し、その後、ソビエト連邦など63か国が署名した。


1929年(昭和4年)10月24日、ニューヨークのウォール街で株価の大暴落し、世界恐慌が始まった。それは日本にも波及し、翌年、田中内閣の後を受けた濱口雄幸内閣が実行した金解禁を契機として昭和恐慌が引き起こされた。この恐慌は戦前の恐慌の内で最も深刻なものであった。イギリス・フランス・アメリカ合衆国などの「持てる国」が植民地囲い込みによるブロック経済で建て直しを図ったが、第一次世界大戦の敗戦で多額の賠償金を負っていたドイツや、目ぼしい植民地を所持しない「持たざる国」である日本などは深刻化な経済不況に陥った。このことはファシズムの台頭を招き、ドイツではナチ政権を生み出す結果となり、日本では満洲(中国東北部)は日本の生命線であると主張され、軍の中国進出を推進する要因となった。

1929年(フィリピン)に世界恐慌が発生すると無課税でアメリカ本土に移入されていたフィリピンの砂糖がアメリカ本土の甜菜糖やキューバ糖に打撃を与え、アメリカの資産家で破産するものが続出した。そのためフィリピン糖排撃の声が高まり、関税を課すことを目的にフィリピン独立が叫ばれるようになった。

1931年(昭和6年)中村大尉事件。柳条湖事件、満州事変勃発。(蒋介石・張学良)

金輸出再禁止
1932年(昭和7年)3月1日、満州国建国宣言。五・一五事件。犬養内閣総辞職。第一次上海事変。
1933年(昭和8年)3月国際連盟脱退。
リットン調査団を派遣し、その調査結果に基づいて、1933年(昭和8年)2月、日本の撤退勧告案を42対1(反対は日本のみ、ほかにシャム(タイ)が棄権し、チリが投票不参加)で可決した。これを受けた日本の全権代表松岡洋右は「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」ことを宣言して総会会場を去り、3月には国際連盟の脱退

1934年(フィリピン)にアメリカ議会はフーバー大統領の反対を押し切り、タイディングス・マクダフィー法で10年後の完全独立を認め、フィリピン議会もこれを承諾したことで、フィリピン自治領からフィリピン・コモンウェルスに移行したが、アメリカはフィリピンにアメリカへの依存貿易を続けさせるなどの利権を確保し続けた1936年(昭和11年)1月15日ロンドン軍縮会議からの脱退を通告。二・二六事件。綏遠事件。西安事件。
1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件、日中戦争(支那事変)勃発。7月11日、現地停戦協定成立。政府河北派兵を声明
7月28日、日本軍、河北で総攻撃開始。8月13日、上海で日中両軍交戦(第二次上海事変)。8月15日、全面戦争に突入。9月「挙国一致・尽人報國・堅忍持久・八紘一宇」をスローガンに国民の戦争協力を促す国民精神総動員運動が始まる。10月6日、国際連盟総会、日本の行動非難の決定を採決。11月20日、大本営設置。12月13日、日本軍が南京を占領。11月日独伊防共協定締結。政府、朝鮮で皇国臣民ノ誓詞を配布。
1938年(昭和13年)4月国家総動員法制定。7月、満州国東南端で張鼓峰事件勃発。

1939年(昭和14年)5月ソ連・モンゴル連合軍と満蒙国境付近で軍事衝突、日本側大敗(ノモンハン事件)。7月国民徴用令制定。
8月独ソ不可侵条約制定によって平沼は「欧州情勢は複雑怪奇」という言葉を残して総辞職。
9月1日、ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦始まる。


1940年、フランスがナチス・ドイツに降伏し、ドイツ・イタリアの勢力が拡大するに及んで
9月日独伊三国軍事同盟締結、北部仏印進駐。10月大政翼賛会結成。
中華民国の蒋介石政権に対して行われていたイギリスやアメリカ合衆国などによる軍事援助は、いわゆる援蒋ルートを通じて行われていた[3]。特にフランス領インドシナを経由するルート(仏印ルート)は4つの援蒋ルートの中で最大のものであった[3]。10月27日、フランス領インドシナ政府は中国に対する輸出を禁止したが、密輸は継続されていた。1938年10月、日本は国境線の封鎖と視察機関の派遣を要求したが、拒
1940年11月25日からはタイ王国とフランス領インドシナ間の国境紛争が勃発した
1941年(昭和16年)ゾルゲ事件。4月日ソ中立条約締結、日米交渉開始。
1941年5月9日に締結された東京条約では、フランス領インドシナからカンボジアとラオスの一部地域をタイに割譲するという合
7月第二次近衛内閣成立、7月28日 南部仏印進駐。ABCD包囲網によって対日石油輸出全面禁止。

フランス領インドシナは本国から遠く、軍備も極めて弱体であった。しかも本国がドイツに敗れたため、独力で植民地を維持することは困難であった[45]。そのため多くの植民地がヴィシー政府から自由フランス支持に転向していった。ヴィシー政府および植民地政府は植民地を維持するため、日本と協力する道を選んだ。 11月15日の「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」による大本営政府連絡会議の決定でも確認.太平洋戦争開始後も、従前のヴィシー政権による植民地統治が日本によって認められ、軍事面では日仏の共同警備の体制が続いた。情報交換や掃海作業などでは両軍で協力が行われている[49]。
御前会議で帝国国策遂行要領決定。12月8日、南方作戦(マレー作戦(英領マレー半島のコタバル、タイ南部のパタニとシンゴラ(ソンクラ)に上陸。コタバル近郊に上陸(マレー作戦の開始)。広東省から英領香港攻撃開始(香港の戦い)。)・真珠湾攻撃)、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦。マレー沖海戦。戦艦大和竣工。
1941年12月(フィリピン)に、アメリカ合衆国軍との間に開戦した日本軍が、アメリカ合衆国軍を放逐しマニラ市に上陸した。アメリカ合衆国陸軍司令官のダグラス・マッカーサーはオーストラリアに撤退し、日本陸軍は1942年の上半期中にフィリピン全土を占領した。 アメリカは1935年にはフィリピンの独立を約束していたので、日本も



1941年(昭和16年)
12月8日 日本、英米に宣戦布告(太平洋戦争開戦)。 開戦


12月10日
日本軍、英領マレー半島のコタバル、
タイ南部のパタニとシンゴラ(ソンクラ)に上陸(マレー作戦の開始)。
広東省から英領香港攻撃開始(香港の戦い)。
中華民国国民政府、日独伊に宣戦布告。
米領フィリピン上空で航空戦(フィリピンの戦いの開始)。
マレー沖海戦。グアムの戦い。日本軍、ルソン島北部(アパリ、ビガン)上陸。グアム、タラワ、マキン島占領。 オランダ、日本に宣戦布告。

12月11日 日本軍、ウェーク島攻略失敗(ウェーク島の戦い)。
ドイツとイタリアが対米宣戦布告
12月12日 日本軍、香港九龍市を制圧、英軍は香港島へ逃走。
12月15日 日本軍、ペナン島占領。
12月16日 日本軍、マレー半島アロースター占領。
12月16日 日本軍、北ボルネオ(コタキナバル)に上陸。
12月16日 戦艦「大和」が竣工。
12月20日 日本軍、フィリピンミンダナオ島ダバオに上陸。
12月21日 日本政府、タイと攻守同盟を締結(日泰同盟)。
12月23日 日本軍、ウェーク島占領。
12月25日 日本軍、香港島を制圧、香港のイギリス軍降伏。

1942年(昭和17年)
1月2日 日本軍、ルソン島マニラを無血占領。
1月8日 連合軍、タイ攻撃開始。
1月11日 日本軍、マレー半島クアラルンプール占領。 日本、オランダに宣戦布告。
1月15日 日本軍、英領ビルマ(現ミャンマー)攻撃部隊がタイに集結。
1月23日 日本軍、ニューブリテン島ラバウル占領。
1月24日 バリクパパン沖海戦。
1月25日 タイ、英米に宣戦布告。日本軍、バリクパパン占領。
1月27日 エンドウ沖海戦。
1月31日 日本軍、タイからビルマ侵攻開始。 マレー半島ジョホールバル占領。
2月 アメリカ人スティルウィルが中国国民党軍参謀となる。
2月1日 日本軍、シンガポールの石油施設を砲撃。米機動部隊、マーシャル諸島来襲。
2月4日 ジャワ沖海戦。
2月7日 日本軍、シンガポール北東のウビン島に牽制上陸。
2月8日 日本軍、シンガポール北西海岸より上陸(シンガポールの戦い)。
2月14日 日本軍、蘭領東インド(現インドネシア)スマトラ島パレンバンを落下傘部隊で占領。
2月15日 シンガポールの英豪軍が降伏。
2月20日 バリ島沖海戦。ニューギニア沖海戦。
2月24日 米機動部隊、ウェーク島来襲。日本軍伊17潜、カリフォルニア州サンタバーバラを砲撃。
2月26日・28日 スラバヤ沖海戦。
3月 フィリピン統一抗日人民軍(フク団)結成。
3月 米、中国に5億ドル借款成立。
3月1日 バタビヤ沖海戦。日本軍、蘭領東インドジャワ島スランに上陸。
3月4日 米機動部隊、南鳥島来襲。
3月5日 日本軍、ジャワ島バタビア(現ジャカルタ)を占領。
3月7日 東インドのオランダ軍降伏。
3月8日 日本軍、英委任統治領ニューギニア島ラエとサラモアに上陸、占領(東部ニューギニアの戦い)。ビルマ(現ミャンマー)ラングーン(現ヤンゴン)占領。
3月13日 アメリカ軍フィリピン司令官マッカーサー、フィリピンから逃亡。
4月5日-9日 日本軍、セイロン(現スリランカ)コロンボの英軍基地を空襲。セイロン沖海戦。
4月18日 米空母から発進したB-25爆撃機によるドーリットル空襲(東京初空襲)。以後本土空襲の年表は空襲にて。
5月1日 日本軍、ビルマ中部マンダレー占領。
5月3日 日本軍、ソロモン諸島ツラギ占領(MO作戦始まる)。
5月4日 日本軍、英領ビルマのアキャプ占領、ビルマ制圧完了。南方作戦完遂。
5月7日-8日 米領フィリピン・コレヒドール島の米軍降伏。珊瑚海海戦。
5月10日 日本軍、ミンダナオ島を占領。

5月29日 日本軍の特殊潜航艇、マダガスカル島のディエゴ・スアレスのイギリス軍基地を攻撃(マダガスカルの戦い)。
5月31日 日本軍の特殊潜航艇、オーストラリアのシドニーのイギリス軍艦艇を攻撃。(特殊潜航艇によるシドニー港攻撃)
6月5日-7日 ミッドウェー海戦で日本軍敗北。ここで日本の空母である、赤城、加賀、蒼龍、飛龍が失われる。
6月7日 日本軍、米アリューシャン列島キスカ島に上陸、占領。
6月8日 日本軍、アリューシャン列島アッツ島に上陸、占領。
6月16日 日本軍、ニューギニア島ポートモレスビーの連合軍基地を空襲。
6月20日 伊26潜、バンクーバーのカナダ軍基地を砲撃。
7月 日本軍、フィリピン全土占領。
8月 イギリス領インドで反英暴動。
8月7日 米軍、ソロモン諸島のガダルカナル島、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島に上陸(ガダルカナル島の戦い、連合軍の本格的反攻始まる)。
8月8日 第一次ソロモン海戦
8月17日 アメリカ軍、マキン奇襲上陸
8月24日 第二次ソロモン海戦10月 英米、中国における治外法権撤廃を声明、不平等条約を廃止。
10月 重慶で英米中ソ対日作戦会議。
10月11日 サボ島沖海戦
10月13日 金剛型戦艦の金剛と榛名による夜間艦砲射撃 ヘンダーソン基地艦砲射撃(ヘンダーソン飛行場艦砲射撃)が行われる
10月26日 南太平洋海戦。米軍の稼動空母が0隻になる。しかし、日本側は多くの航空機パイロットを失う結果を出す。戦術的にはアメリカの勝利。
11月12日 第三次ソロモン海戦
11月30日 ルンガ沖夜戦
12月8日 ニューギニア島バサプアの日本軍全滅。


1943年(昭和18年)
昭和18年5月の大東亜政略指導大綱に基づくものであり、会議開催に先立ち日本によるビルマの独立承認(8月1日)、フィリピンの独立承認(10月14日)、大東亜省の設置(11月1日)
1943年5月(フィリピン)に御前会議でフィリピン(フィリピン行政委員会)とビルマを独立させた。
1943年(昭和18年)東京都が設置。日本軍ガダルカナル島撤退。アッツ島の戦い。ソロモン諸島の戦い。学徒出陣。
1943年10月14日、ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国が成立した。しかしアメリカは日本の傀儡政権であるとしこれを認めなかった[13][14]。その後ラウレルは日本との協力関係を築きフィリピン政府の運営を進めた。
11月5日 - 11月6日 大東亜会議は、に東京で開催されたアジア地域の首脳会議。同年5月31日に御前会議[1]で決定された大東亜政略指導大綱に基づき開催された。当時の日本の同盟国や、日本が旧宗主国を放逐したことにより独立とされたアジア諸国の国政最高責任者を招請して行われた。そこでは、大東亜共栄圏の綱領ともいうべき大東亜共同宣言が採択
日本(大東亜共同宣言中の表記は「日本国」):東條英機内閣総理大臣 中華民国(南京)国民政府:汪兆銘行政院長 満州国:張景恵国務総理大臣
フィリピン共和国:ホセ・ラウレル大統領 ビルマ国:バー・モウ内閣総理大臣 タイ王国:ワンワイタヤーコーン親王(首相代理)
インド:この時点では本土がまだイギリスの植民地支配下にあったインドからは、日本と協力しインド全土のイギリス(イギリス領インド帝国)からの完全独立を目指していた亡命政権である自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボースが参加した。

また、イギリスの植民地であったマライや、オランダの植民地であったインドネシアは会議当時は日本軍の占領下であったものの、大東亜政略指導大綱において帝国領とすることとされ、独立検討の対象ですらなかった。仏領インドシナは日本と友好関係にあるフランスのヴィシー政権の植民地のままであったため同様に参加していな


1944年(昭和19年)大陸打通作戦、インパール作戦、マリアナ沖海戦、グアムの戦い、レイテ島の戦い、フィリピンの戦い (1944-1945年)、昭和東南海地震。B-29による東京への空襲が始まる。

1944年12月8日に親日義勇隊のマカピリが設立されベニグノ・ラモスなどが参加し、戦闘に加わった。また、アメリカの援助を受けて結成された反日ゲリラ組織のユサフェ・ゲリラと共産系のフクバラハップが各地で抗日ゲリラ戦争を行った。その後1944年末に米軍が反攻上陸すると、フィリピン・コモンウェルスが再び権力を握った。第二次世界大戦によって110万人のフィリピン人が犠牲となり、マニラに20棟あった16世紀から17世紀にかけて建立されたバロック様式の教会は、米軍の攻撃により2つを残して破壊された。



1945年(昭和20年)硫黄島の戦い、
4月米 ルーズベルト大統領死去、トルーマン大統領に
7月26日 ポツダム宣言
日本無条件降伏

*第二次世界大戦終了
(米軍死者: 太平洋92,540人 / 欧州 202,057人)


1946年 日本国憲法が公布(1947年に施行)

1947年(マレーシア) マラヤ連邦、イギリス領植民地の集合体として結成

1949年 中国共産党が国民党に勝利

1950年 6月25日 朝鮮戦争勃発(1953年7月27日休戦)
北朝鮮(+人民解放軍)が38度線を越えて南に侵攻

1951年 サンフランシスコ平和条約調印
日米安全保障条約調印

1956年 日ソ共同宣言

1957年(マレーシア) マラヤ連邦(初代国王トゥアンク・アブドゥル・ラーマン、初代首相トゥンク・アブドゥル・ラーマン)独立

1964年 東京オリンピック


1965年 日韓基本条約


1972年
沖縄返還

1975年 ベトナム戦争終結

南方作戦
1941年9月3日、日本では、アメリカ合衆国やイギリス、オランダとの関係悪化を受け、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議。
1941年10月29日までに陸海軍中央統帥部における作戦計画書類の策定が終わった[17]。11月5日、陸海軍の大本営総長は両軍の作戦計画を上奏して裁可を得た。
諸計画書類のうち南方作戦計画の全貌を明らかに示しているのが「南方作戦陸海軍中央協定」である[4]。中央協定によって作戦名称が定められ、南方作戦全体の総称は「あ号作戦」に決まった。それぞれの各方面作戦は、フィリピン作戦は「M作戦」、マレー作戦は「E作戦」、蘭領印度作戦は「H作戦」、グアム作戦は「G作戦」、英領ボルネオ作戦は「B作戦」、香港作戦は「C作戦」、ビスマルク作戦は「R作戦」と定められた[5]。

フィリピンへの侵攻は真珠湾攻撃の10時間後、1941年12月8日に始まった。真珠湾と同様にアメリカの航空機が最初の日本による攻撃で深刻な被害を受けた。アメリカの太平洋艦隊は上空援護を得られず1941年12月12日にジャワ島に撤退した。ダグラス・マッカーサーは1942年3月11日の夜に軍隊を残したままコレヒドール島を去り、4,000 km離れたオーストラリアへ向かった。
置き去りにされた7万6000人のアメリカ軍・フィリピン軍の人々は1942年4月9日に降伏し、バターン死の行進に7000 - 10000人が命を落とした。コレヒドールにいた1万3000人の生存者は5月6日に降伏した。
降伏までの3年以上にわたり、日本はフィリピンを占領した。
戦後の調査では約26万人がゲリラ組織に所属し、反日の地下部隊はそれよりも多くいたことが分かっている。そのことは終戦までに日本が48の州のうち12の州しか支配できていないということでもあった

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