金福童 (kim Boku Dong)

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51858988.html


ロサンゼルスにあると言うKAFCという、慰安婦支援団体はFacebookにて金福童の略歴を公表している。
1926年   慶尚南道梁山ナムブドン誕生
1941年、15歳に連行され、広東省、香港、シンガポール、インドネシアなどの地で日本軍性奴隷

* 1940-1941年頃 警官・班長来る.季節は春または秋.軍服工場へ行くという名目で釜山
第一埠頭へ.男ふたりの引率で,約30人の女性と船で下関へ.次いで,台湾経由で広東へ.


1945年、米軍の捕虜収容所に収監、全羅南道海南で帰国
*南方軍第10陸軍病院の軍属の中で最も低い職級にあたる「傭人」として採用された
と記録

1946年、20歳で帰国

1990年11月16日 - 韓国教会女性連合会韓国女性団体連合会等16団体が参加して韓国挺身隊問題対策協議会結成。初代代表は尹貞玉

1992年には、被害届
1992年から"日本軍"慰安婦 "問題の解決のための定期水曜デモ"に参加
1992年8月ソウルで開かれた「日本軍慰安婦問題解決のためのアジア連帯会議」で慰安婦としての体験を証言

1993年、(74歳)日本軍'慰安婦'被害者申告
オーストリアのウィーンで開催された世界人権大会への出席、証言

1994年以降、日本、アメリカなどの証言集会に出席し、証言

1995~1996前後50年、日本全国証言集会への参加、証言

1998年米下院ウィリアム・リピンスキー議員が提出した日本政府の公式謝罪と賠償を
            求める決議案に関連する米議会で証言

2000年、日本軍性奴隷戦犯女性国際法廷原告として参加

2009年 挺身隊対策協運営避難所'我が家'に住んでいる

2010年 金福童「広東,香港,シンガポール,インドネシアを転々として」
     (西野瑠美子・金富子責任編集『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅱ 南・北・
      在日コリア編』下巻,明石書店,2010年)

2011年12月14日、日本大使館の前に立てた平和碑建立提案
2011年3月、日本の東北地方の大地震。角南犠牲者のために水曜デモを追悼集会で、被害者支援のための募金運動の提案
2012年3月8日、コンゴ、ウガンダなど、現在行われている戦時性暴力被害者を支援するための蝶基金創設者

2012.9.23の講演会
https://megalodon.jp/2013-0528-1937-15/hullz.net/peace/?p=682

2012年10月13日と 2014年3月22日に,
ソウルのシムトで吉見教授と梁澄子(ヤンチンジャ)による聞き取り。


2015年にはこうした活動への貢献が認められ、国家人権委員会から「大韓民国人権賞」が贈られたほか、慰安婦像を設置したカリフォルニア州グレンデール市議会からは「勇敢な女性賞」を授与された。また同じ2015年、「国境なき記者団」とAFP通信からは、何とあのネルソン・マンデラ氏(南アフリカ大統領)やマーティン・ルーサー・キング牧師(黒人人権運動家)などとともに「自由のために戦う英雄100人」に選ばれている。




==聞き取り調査
祖父はそれなりの地位の人。2人の息子。
権力闘争に負けて慶尚南道の密陽.梁山も慶尚南道の梁山に。
実父は梁山。娘ばかりの6人兄弟。

 (生年月日)
 彼女の生年だが,韓国挺身隊研究所の姜貞淑氏が発見した南方第10陸軍病院の「留守名
簿」(南方課南方班スマトラ係作成,1947年9月)が残っており,その中に「金福童」という名
前がある(文末の資料参照.これは南方課第4班「朝鮮人 第十六軍司令部 同直轄部隊 留守名簿」〔韓国・国家記録院所蔵〕の中にある,という).
それによれば,本籍地は慶尚南道梁山郡梁山面南部洞231で,年齢は21歳,傭人となったのは1945年8月31日となっている.


私はまだ14歳だから考えてもいなかったんだけど,軍服,階級〔章〕のない軍服を着た男2人と
警察官ひとりと村の班長が一緒に来て,私に,今日本で戦争をやっていて軍服をつくるのに人手が足りない,だから軍服をつくる工場に行かなきゃいけない,と.そしたらお母さんが,まだ幼い子
を工場には送れない〔と言ったが〕,行って習えばいい,もし逆らったら,日本に反対する反逆者
だということで全財産を没収して外国に追放する,と.それで工場に行くんだからまさか殺され
はしないだろうとついて行ったところが工場ではなく,戦場で,日本軍の奴隷になって無残に踏み
にじられた過去がどれほど辛いか。

私たちの場合は,ここから何十人送る,この面からは何十人,こんなふうに募集をしろと命令を出しているわけだ,日本政府が.働いている人は韓国人だよ.韓国人が味方になって,自分たちの一家親族は全部よけとくから人数が足りないわけよ.だから農民の子どもたちが,年が多い少ないにかかわらず,力のない子どもたちがみんな連れて行かれたんだよ.



曺 「美しく粉飾した家」で「美粉場」だと思います.
金 慰安婦という言葉は韓国に来て初めて聞いた.どうして慰安婦って言うんだろうって思っ
た.当時は慰安婦という言葉は聞いたこともない.

金福童さんからの聞き取り(2)2014年3月22日

私が行った時には30人くらいいたかな.その部隊にずっと付いて行く
梁 その30人は最後まで…….死んだ人もいなくて.
金 うん,最後まで.最後まで一緒にいて,シンガポールで戦争が終わって,陸軍病院に行くこと
になって,乗るのはみんな一緒に乗ったんだけど,どこに行っちゃったんだか…….
金 名前は全部忘れちゃった.
梁 覚えている名前はありませんか.
金 覚えている名前は,みんなもう死んでいないもの.

梁 この人たち以外に覚えている名前はありませんか.
金 死んだ人たちしか覚えてないよ.朴パク頭トゥ理リとか…….
梁 ああ,当時あそこに一緒にいた人ではなく.
金 うん,韓国に来て,ナヌムの家に入って会った人たち.一緒に行った友達の中では,韓国に
戻ってから友達ふたりが私の家に来て1ヶ月間暮らしたことがあるの


家に帰ったらお母さんが22歳だと言って,8年目だと言ったので分かったのであって.そこにいる時には,何年目に帰って来たのかも分からないし,何年経ったのかも分からなかった.



金 シンガポールに行った後は軍人の相手はしなかった.その時には解放〔日本の敗戦〕になって
たんじゃないかしら? そこに行ってから,移動したら軍人が来るものなんだけど,軍人が全然来
なかったの.だからまた他のところに移動するんだと思ってたのよ.そしたら,トラックに病院の
マークを付けて幌のついた車で来て,乗れって言うのよ.


梁 その30人は最後まで…….死んだ人もいなくて.
金 うん,最後まで.最後まで一緒にいて,シンガポールで戦争が終わって,陸軍病院に行くこと
になって,乗るのはみんな一緒に乗ったんだけど,どこに行っちゃったんだか…….

陸軍病院がシンガポールからちょっと越えて行ったところにあったんだけど,日本に行ってから聞いたらその病院はバンコクにあったって言うんだけど.どこにあったのかは分からないけど,日本人がバンコクだとか何とか,陸軍病院が.

第10陸軍病院は1943年にはパレンバンにあった







橋下氏に面会するといって来日しながら、なぜか直前にキャンセルした金福童(87)と吉元玉(84)の2人は、大阪市内で開かれた集会には参加した。朝鮮新報によれば、「金福童さんはまず、14歳の時に軍需工場に連れて行くと騙され、南洋群島の戦場に慰安婦として送られた」という。彼女の証言は次のようなものだ。
最初、中国・広東の慰安所に入れられた。そこには陸軍司令部の本部があり、私たちは将校と軍医官に身体検査をされ、すでに用意してあった部屋に行かされた。日本政府は『自分たちがやったことではない』と言っているが、民間人がどうやって軍人相手のための慰安所を作ることができるのか
まず彼女が最初に送られたのが南洋群島(パラオ・サイパンなど)なのか広東なのかという事実が、同じ記事の中で食い違っている。さらに金は「広東から香港、マレーシア、スマトラ、インドネシア、ジャワ、シンガポール…、前線地帯の戦地を日本軍と共に転々とした」という。日本軍の部隊でも、このように太平洋を数千kmも移動した将兵はなく、まして慰安婦がそれに随行することはありえない。

金は87歳というから、「14歳の時」というのは1939年か40年だ。そのころ朝鮮半島に徴用令は出ていないので、「軍需工場に連れて行くと騙した」のは民間人だろう。軍医が身体検査をするのは当然で、衛生管理のためである。「民間人が軍人相手のための慰安所を作る」のはもうけるためで、何の不思議もない。要するに、彼女は民間人にだまされて民間の慰安所で働いたと言っているのだ。どこにも「強制連行」は出てこない。


https://ameblo.jp/study-houkoku/entry-12126936163.html


金福童さんの年齢問題と隠蔽すべき問題
「金福童さんの年齢問題」
年齢表現は、満年齢と数え年があり、ネット情報によれば、日本を含む多くの国々は満年齢を採用、韓国は数え年を採用していると説明があります。

数え年は、誕生年を一歳とし次の正月で加算していきます。誕生月日の前では満年齢と二歳、後では一歳の差があります。

日本では1902年12月より満年齢を使用することになったが数え年も使われていました。1950年に満年齢を義務づけました。韓国では、数え年を使用しています。

金さんの年齢はどちらの表現が情報を探していましたら、2013年9月20日、フランスでのインタビュー記事に解説がありました。
http://www.rfi.fr/asie-pacifique/20130920-kim-bok-dong-87-ans-ex-femme-reconfort-attend-excuses-officielles-japon-droit-femmes/
翻訳
http://francematome.blog.fc2.com/blog-entry-13.html


今(2013年)満87歳、数え(韓国式)で88歳。
(以下の証言は虚言と思われる)
満14歳(数え15歳)のとき、韓国は日本によって植民地化された。韓国は弱く、韓国民は奴隷のようで、全ての男子は日本軍によって徴用され、女性も強制された。

台湾、香港、マレーシア、スマトラ、インドネシアのジャワ、バンコックと日本軍と移動。8年間使われ、韓国の開放(終戦)を知らず、日本の陸軍病院に配属され、その後米軍の収容所に入れられ、韓国に送られた。


2013年9月28日 Sina English(フランス記事の英訳記事)
http://english.sina.com/world/2013/0927/632534.html


87歳の金さん。14歳で連れ出され8年間慰安婦をしていた。台湾、香港、マレーシア、インドネシア、シンガポールと移動。22歳のとき韓国に帰国。

上記記事のなかで、ロンドンのSOAS大学のコリア専門家のKeith Howardは、戦争が終わっても慰安婦の仕事は終わらない。日本軍に替わって進駐した軍隊に支配される。帰国する手段がないので帰国が遅れたと語っている。

Keith Howard, a Korea expert at SOAS university in London, explained that the end of war did not mean liberation for many women like Kim.
"After the Japanese surrender in 1945, we do know that... comfort women were forced into continuing their service, either towards new troops (American or Russian) who came in or just left and discarded for the locals to use," he says.
Many did not return to their countries until much later, ending up in entertainment establishments as they had nothing to go back to or just did not have the means to go home, he adds.
"And why would they go back to shame?" Howard said.
When Kim finally returned home, she initially lied to her family about what had happened. But she could not face marriage after what she had been through.


2012年7月4日
KAFC(Korean American Forum of California)
マイク・ホンダ議員のグループ
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=386996134688097&set=a.386988511355526.98152.386975531356824&type=1
1926年誕生、1941年15歳のとき連行され、中国、香港、インドネシア、マレーシア、シンガポールと移動、1945年米軍収容所、1946年20歳のとき韓国に帰国。


2005年1月11日 朝鮮日報
http://f17.aaacafe.ne.jp/~kasiwa/korea/readnp/k285.html
 1945年8月31日、金さんは19歳と、1947年9月に作成された「第16軍司令部同直轄部隊朝鮮人留守名簿第4課南方班」軍属名簿に南方軍第10陸軍病院と記録があった。(韓国挺身隊研究所発表)


2000年12月 女性国際戦犯法廷の全記録Ⅰ
(金福童さんは病気のためビデオ証言)
16頁
1926年慶尚北道生まれ、1941年15歳の時広東で慰安婦、香港、シンガポール、スマトラ、インドネシア、マレーシア、ジャワに移動。終戦時はシンガポール。最後の帰還船で帰国。(慰安所設置は、広東の第21軍司令官 安藤利吉の指示とされる。) 
慰安所での名前は「カネムラ・フユコ」「ヨシコ」


注;安藤利吉中将(陸士16期):1938年(昭和13年)11月9日 - 1940年(昭和15年)2月9日(廃止)
1941年金さんが広東に入ったときは第23軍(第104、129、130師団)


◇1994年3月 「女性の人権アジア法廷」での証言
http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20130602/1370136389
69歳の金さん
 16歳の時挺身隊に入った。釜山、下関(1週間)、台湾(2ヶ月)、広東、香港、スマトラ、インドネシア、マレーシア、シンガポール(長期)、戦争中断、第16軍病院に看護婦として入る、朝鮮人の区別、米軍収容所、8年後帰国。
以上を一覧表にまとめたのが下表です。




金さんは、1926年に誕生し、1940年14歳のとき連行され、1941年15歳のとき広東で慰安婦の営業を始め、8年後の1947年に韓国に帰国したことになります。

1994年3月の「女性の人権アジア法廷」で登場した際の年齢を数え年と解釈することにすれば、1926年誕生となり他の証言と一致します。

なお、フランスの記事日付によれば、誕生日は9月20日より前ということになります。さらに調べますと、下記の2013年4月22日誕生日の祝賀記事がありました。
http://megalodon.jp/2013-0530-1051-09/www.hani.co.kr/arti/society/area/584082.html
金さんは片言の日本語が話せる。(琉球朝日放送)
http://www.qab.co.jp/news/2013052043314.html


金さんは、日本軍に追従して各地を移動したと証言しています。それに当てはまるのは下記第18師団ですが、第15軍に編成されビルマに向かったときには、金さんと業者はシンガポールに残留したことになります。

しかし、慰安所を経営する業者(女郎屋)は、第一線の戦闘地域に進出するわけではなく、統治が安定した地域で営むはずで、業者の選択に委ねられると考えて良いでしょう。


広東からマレー・シンガポールに転戦した師団
第18師団;1937年第10軍に編入→杭州から南京攻略→1938年第21軍編入→広東攻略→1941年第25軍編入→マレー・シンガポール攻略→第15軍編入→ビルマ攻略


「陸軍師団総覧(新人物往来社)」
大日本帝国陸軍師団一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%B8%AB%E5%9B%A3%E4%B8%80%E8%A6%A7
大日本帝国陸軍の軍の一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E9%99%B8%E8%BB%8D%E3%81%AE%E8%BB%8D%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
第25軍(マレー半島、スマトラ島) 近衛師団、第5、18、56師団、南方第9、10、17病院
第16軍(ジャワ島) 第48師団、第109兵站病院、第5、6、7病院


金さんが配属された病院は、ジャワ島の第16軍管轄であると、1994年に証言し、2005年の韓国挺身隊研究所発表にも同様の記載があります。しかし、2005年の情報には南方軍第10陸軍病院に配属とされています。第10病院は、マレー・スマトラの第25軍の管轄であり、何らかの間違いの可能性があります。


金さんの最終勤務地は、マレー・スマトラの第25軍の勤務地の可能性が高いと考えられます。
この調査を進めて行くと、金さんの証言が、後から作られた証拠により修正されているように感じます。


また、金さんの戦後の行動が語られていません。何時病院勤務を終了し、何時どの港から帰還船(船名)に乗り、どの港に着いたのか、最も記憶に残っている事柄を語っていません。朝鮮日報が報じた「第16軍名簿」も挺対協からの伝聞であり、原本を示しての報道ではありません。

挺対協がバックにいるので、つじつま合わせを行っている作業班がいるのかも知れません。その作業班は、病院名の違いから日本軍の配置を正確に調べていない可能性があります。

ストーリーテラー(慰安婦)とシナリオライター(挺対協)との記憶違いや調査不足が、慰安婦が「ジープ」「クリスマス」などと発言する事例につながっていると考えられます。

 下記は、2013年9月のフランスでの金さんの証言として、「朝鮮戦争のとき慰安婦であった」と語ったとの記事。この記事もasiae社の記者が思い込みで書いてしまったか、金さんが本当に話したかは分かりません。
Asiae社は、後日「日帝占領時代」と書き直しています。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/47577325.html



◇2012.9.23の講演会にて
私は時代を間違えて生まれてしまいました。国の力が弱かったために日本に国を奪われて、たくさんの人々が銃剣のもとに倒れていきました。若者たちは徴用、徴兵などの名で引っ張られていき、学生たちまで学徒兵という名で根こそぎ奪われていきました。
それでも足りなくて、女性に対しても、各郡や市町ごとに何十人と募集が行われました。娘を持つ親たちは、娘たちを守るために結婚させたかったのですが、
徴用や徴兵で相手がいませんでした。
14歳のある日、日本人の警察官と、村の班長と、軍服を着た男性が二人がやって来ました。「軍服をたくさん作らなくてはいけない。人手が足りないから、工場に行きなさい」と言われました。「なぜ、こんなに幼い子を連れていくのか。こんなに幼いのに工場で働けるのか?」と母が言ったら「行って学べばいい。行かなかれば、財産を没収して外国に追放する」と脅迫されました。
まさか連れて行かれても死ぬことはないだろうと思い、私は家を出ました。しかし、連れて行かれた場所は、工場どころか、陸軍の軍人の性の相手をさせられる場所だったのです。幼い少女が、日本軍の性奴隷として8年間、そこに囚われていたのです。
この胸の痛みを分かって頂けるでしょうか。みなさんにもお子さんがいるのではないでしょうか。もし自分の幼い子どもが遠くの戦場に連れて行かれて、こんな目にあったとしたら、どんなふうに思われますか?
そして私は、陸軍第15師団の本部について、台湾、広東、香港、マレーシア、スマトラ、インドネシア、ジャワ、シンガポール、バンコクと連れ回されました。私たちは陸軍本部についていました。本部から40Km前線で部隊が上陸し戦闘を行います。そこに後から本部が乗り込んでいくのです。
私たちは、人間としてではなく、まるで機械、あるいは獣のような扱いを受けました。土曜日は12時から夕方の5時まで、日曜日は朝の8時から夕方の5時まで日本兵の性の相手をさせらたのです。軍人たちが列をなして立っています。一人を相手にするだけで、もう血が流れて痛くてたまらないのに、3分ほどで次の男が入ってきます。数十人の相手をそんなふうにすると、その後はもう立つこともできませんでした。
このようなことをしておいて日本政府は、何故謝らないのでしょうか。私は、何も今の日本政府が悪いと言っているのではないのです。過去に天皇制のもとで、過ちを犯したその事実に対して現政府にきちんと謝罪をして法的な賠償をしてもらいたいと思っています。
民間人がやったことだとか、お金儲けのために行ったんだとか言われていますが、しかし、戦場にたくさんの幼い少女たちを民間人が連れていくことは可能だったのでしょうか。軍の許可がなければ、出来なかったことだと思います。また、いくらお金儲けが出来たとしても、あんな戦場に行きたいと思う人がいるはずがありません。
根拠がないとか、証拠がないとか言っているようです。証拠はあるはずです。根拠がないと言いますが、ここに証人が生きています。本人が生きているのに、根拠がないなんて、あまりにもひどいと思います。それがあまりにも悔しくて、「根拠がない、証拠がない」と言う人に私は直接会いたいと思って日本にやって来ました。私たち被害者はもうほとんど死んでしまって何人も残っていません。生きている人がいる間に解決して欲しいと思います。
何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでいくのが人間です。生きている間にお互いに理解しあい、慰めあって仲良く生きていくことが大事だと思います。在日の人たちに関しても、大事にして欲しいと思います。私が言いたいことを全部話そうと思ったら、一晩かかっても話しはできません。今日はこのようにたくさんの方が来て下さって、本当にありがとうございました。



「隠蔽すべき問題」
前述のSOAS大学のコリア専門家のKeith Howardの説明にもあるように、「解放軍」が直ちに慰安婦を解放したわけではなさそうです。

米公文書「レポートNo.49:日本人戦争捕虜の売春婦尋問」
 「尋間によると、朝鮮人「慰安婦」について一般的にいえるのは、年齢は25歳前後、教育程度は低く、幼稚、利己的、気まぐれであるということである。これらの女性の容貌は、日本人または白人の基準からみて綺麗とはいえない。また、自己中心的であり、自分自身について語りたがる傾向がある。見知らぬ人の前ではおとなしく、取り澄ましているが、彼女らは「おんなの手管」を心得ている。彼女らは自分の「職業」を嫌いだと主張し、「職業」や自分の家族について語りたがらない。ミイトキーナおよびレドにおいて米軍兵が捕虜である彼女たちに親切な処遇をしたため、彼女たちは米軍兵士が日本軍兵士よりも情にもろいと感じている。中国兵およびインド兵を、彼女らは恐れていた。」


吉見義明編「従軍慰安婦資料集」1992年11月27日発行 大月書店
439頁~
日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日
尋問場所 レド捕虜収容所
尋問期間 1944年8月20日~9月10日
報告者 アレックス・ヨリチ


政府調査資料 1997年7月10日 118~136頁(PDF通し頁)
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_5.pdf


史実を世界に発信する会
http://hassin.org/01/category/literature/comfortwomen/page/2
米国陸軍インド・ビルマ戦域所属情報部心理作戦チーム情報室(OWI)
日本軍捕虜尋問報告第49号
http://hassin.org/01/wp-content/uploads/No49.pdf
同上原文
http://www.sdh-fact.com/CL02_4/8_S1.pdf


上記のビルマの作戦に参加した米軍将校のロイ氏が出版した書物の写真から、慰安婦達がふくよかで表情が暗くないことが分かります。戦闘中の極限的な飢餓状態や暴力支配に置かれていなかったと見えます。その意味で、日本軍と連合軍からも守られていたと考えられます。
チャン・ウォン・ロイ "Burma: The Untold Story" の解説と掲載写真
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080514/p1
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080515/p1


「日本軍捕虜尋問報告第49号」の調査に関わったとされるOWIのカール・ヨネダとチャン・ウォン・ロイの「BURMA : Untold Story」の調査記録
「慰安婦問題とアジア女性基金」
http://awf.or.jp/6/01-1.html
(「慰安婦」問題調査報告・1999 左から5つめのPDF)


雲南・ビルマ最前線における慰安婦達-死者は語る
浅野豊美(注1)
http://awf.or.jp/pdf/0062_p061_088.pdf


 この浅野先生のミチナ(ミイトキーナ)捕虜尋問報告分析は、背景も含め詳細な内容です。浅野先生は、カール・ヨネダとチャン・ウォン・ロイの捕虜収容所での見聞がずれていることを指摘し、報告書の矛盾を突いています。
 最初の鉄条網越しの写真、手前のヘルメットをかぶっているのがヨネダ、右端の膝まで露出した女性がKim、彼女は、慰安婦ではなく宮本キクエという看護婦、ヨネダとキムの間の中央の男は、日本軍兵士(捕虜)と推測している。8月3日キムと日本軍兵士を捕らえ、ヨネダが彼女を飛行機に乗せて基地に帰ったのが8月5日。従って、8月10日捕虜の20名にはキムは含まれていない。



8月10日捕虜になった20名の慰安婦






戦後、GHQが朝鮮人の帰還事業を推進したにもかかわらず、李承晩の反共政策で、朝鮮人が朝鮮半島より暮らしやすい日本に戻ってきます。さらに1950年には朝鮮戦争が起こり、ますます住みにくくなります。このころ日本に密航した方々が在日朝鮮人です。金さんは、1947年に帰国したとしても、当時の朝鮮半島は混乱と経済疲弊で女性がまともに生活できる状況ではなかったと思われます。女性が生き残れる売春業に従事したことが想像できます。金さんは朝鮮戦争で進駐してきた米軍を主力とする国連軍を相手に営業した可能性があります。日本の慰安婦(売春婦)も同じ道をたどっていることが報告されています。


 金さんの証言に「朝鮮戦争の時」、他の慰安婦から「ジープ」「クリスマス」の言葉が漏れるのは、国連軍(米軍)を相手にしたことを物語っています。
「ジープ」東アジア黙示録さんブログ
http://dogma.at.webry.info/201407/article_1.html
「ジープ」台湾 鄭陳桃さん
http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201307070001.aspx
「クリスマス」黄錦周さん1995.7.25


 以上の資料から、日本軍を相手にした慰安婦は、売春業を継続し、国連軍(米軍)の兵士も相手にした可能性が高く、韓国政府は「米軍慰安婦」の隠蔽のため「日本軍」の慰安婦問題を強調していると思わざるを得ません。従って、金さんは、シナリオライターに指導され1945年以降の具体的な行動を隠さざるを得ないのだと思われます。


金さんは、1940年から1960年過ぎまで20年以上売春婦の営業をしたか、あるいは、1945年以降売春婦になったか、いくつかの可能性が考えられます。要するに米軍慰安婦だったことを隠したいのではないかと思われます。彼女の証言に生活臭(具体性)が感じられません。

(注1)
米国で「慰安婦問題」を広めている活動家のエミコヤマ氏が主導した「2015年5月5日 187名の日本歴史研究者の声明」を翻訳する作業を行ったのが早稲田大学政治経済学術院の浅野豊美教授
朝日新聞、声明文と187名の名簿
http://www.asahi.com/articles/ASH575KGGH57UHBI01Y.html?iref=comtop_list_int_n02
エミコヤマ氏本人の声明(東洋経済の福田記者の曲解記事の訂正)
http://synodos.jp/international/13990
ここでリンクされている東洋経済の記事に浅野豊美教授の紹介がある。
http://toyokeizai.net/articles/-/68890?page=3



http://blog.livedoor.jp/kanedashoji70/archives/cat_582821.html?p=2
http://blog.livedoor.jp/kanedashoji70/archives/28095337.html
ハルモニは6人姉妹で、慰安婦量産地である慶尚南道が故郷です。揺らぎはあるが、満14歳で連行されている事になっていますから、1926年生まれなので1940年に慰安婦になった事になります。さて、この時、ハルモニが住んでいたとされる所轄の警察署は蔚山警察署。ここの警部はどんな人物だったのでしょうか。

これについて「朝鮮総督府及所属官署職員録 昭和15年」を見てみると2人いた事が分かり、1人は朝吹謙作氏という日本人であり、もう1人が朝鮮人の金永碩氏でした。そして、実際の実務はこの金永碩氏が行っていた。

もし、本当にハルモニが慰安婦だったのなら、証明書を発行したのはやはり朝鮮人であった事が判明したのです。

証明書がなければ慰安婦になれない。これは誰も否定できない当時の絶対的な制度であり、証明書が出ているのであれば親の承諾があった事の裏付けとなる。そうなると、キム ハルモニ。貴女は親に売られたか、朝鮮人警部が絡んだ人身売買の被害者かのどちらかという事になります。


2005年01月12日
https://plaza.rakuten.co.jp/07140714/diary/200501120000/

カテゴリ:南北朝鮮関連
元日本軍慰安婦・金福童さんの実名記録が発見 ・・・されたらしい

■元日本軍慰安婦・金福童さんの実名記録が発見 [1/11 朝鮮日報]
今回発見された軍属名簿は、1947年9月に作成されたもので、「第16軍司令部同直轄部隊朝鮮人留守名簿第4課南方班」と書かれている。

この記録によれば、1945年8月31日、当時19歳だった金さんが南方軍第10陸軍病院の軍属の中で最も低い職級にあたる「傭人」として採用されたとされている。金さんは97年の「証言集」で「15歳で連れて行かれ中国の広東、マレーシア、インドネシア、シンガポールで日本軍の慰安婦として生活した」と明らかにしている。  カン研究員は「戦争が終わった時点で朝鮮人女性を看護婦として雇ったことは日本軍の慰安婦制度を隠蔽、または最後まで朝鮮の女性労動力を収奪しようとした日帝の意図と解釈することができる」と主張した。
 
元日本軍慰安婦・金福童さんの実名記録が発見
生存する日本軍従軍慰安婦被害者の実名記録が初めて発見された。

韓国挺身隊研究所のカン・ジョンスク研究員は国家記録院の軍人軍属資料を調査途中、従軍慰安婦被害者の金福童(キム・ボクドン)さん(79)の実名記録を発見したと11日、明らかにした。
名簿に記載されている金さんの本籍や生年月日などの内容が挺身隊研究所が1997年に発行した『強制連行された朝鮮人軍慰安婦たちの証言2集』に収録された金さんの証言と一致するという。
今回発見された軍属名簿は、1947年9月に作成されたもので、「第16軍司令部同直轄部隊朝鮮人留守名簿第4課南方班」と書かれている。
 この記録によれば、1945年8月31日、当時19歳だった金さんが南方軍第10陸軍病院の軍属の中で最も低い職級にあたる「傭人」として採用されたとされている。金さんは97年の「証言集」で「15歳で連れて行かれ中国の広東、マレーシア、インドネシア、シンガポールで日本軍の慰安婦として生活した」と明らかにしている。

カン研究員は「戦争が終わった時点で朝鮮人女性を看護婦として雇ったことは日本軍の慰安婦制度を隠蔽、または最後まで朝鮮の女性労動力を収奪しようとした日帝の意図と解釈することができる」と主張した。
 同研究員はまた「軍属名簿には金さん以外にも299人の朝鮮人女性の名前が残っており、国に慰安婦被害者として登録していない実際の被害女性がかなり多数いるものと見られる」と推定した。
 同研究所のイ・ソンスク所長は「新年に入っただけでもキム・サンヒさん、キム・ブンソンさんが亡くなるなど、日本軍の慰安婦被害女性が相次いでこの世を去っており、この資料の持つ価値はそれだけに大きい」と話した。
 韓国政府に登録されている日本軍の慰安婦被害女性は合計215人で、これまでに88人が亡くなった。

韓国挺身隊問題対策協議会などが日本軍慰安婦に対する日本政府の公式謝罪と賠償を要求している中、この記録は日本軍の慰安婦制度を否認する日本右翼の主張を反駁し、日本政府の責任と賠償の義務を問う重要な根拠になると見られる。
キム・ユンドク記者 sion@chosun.com [朝鮮日報 2005/01/11 20:23]
 

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タイトルに騙されちゃ駄目です。
この新発覚?したという資料で明らかになったのは、この『金さんが南方軍第10陸軍病院の軍属の中で最も低い職級にあたる「傭人」として採用された』という事実だけなんです。
「15歳で連れて行かれ中国の広東、マレーシア、インドネシア、シンガポールで日本軍の慰安婦として生活した」のはあくまで”証言”に過ぎない。
それなのに、何で結論が「戦争が終わった時点で朝鮮人女性を看護婦として雇ったことは日本軍の慰安婦制度を隠蔽、または最後まで朝鮮の女性労動力を収奪しようとした日帝の意図と解釈することができる」になっちゃうんだかとっても不思議です。

百歩譲ってこの女性が慰安婦だったとしましょう。でも1947年に日本側が慰安婦制度を隠蔽しようとしたというのはおかしくないですか?
1947年といえば終戦二年が経ち、日本政府の権限はGHQに取り上げられ隠蔽工作なんかしているヒマはなかったはずです。仮にまだ隠蔽工作するだけの余力があったとして、何故慰安婦制度を隠蔽しなければならないのでしょうか?

当時、慰安婦などの売買春行為は禁止されてはいませんでした。売春行為を隠す必要はありません。GHQもやってます。 では所謂強制連行とやらを隠したかったのでしょうか?
でもおかしいですね。
慰安婦は彼女だけではない。その他大勢の慰安婦がいた。それら全員に隠蔽を行わなければ意味がないはずです。朝鮮人慰安婦全員に隠蔽を行ったんでしょうか?

いやいや。そもそも「誰に」対し隠蔽を行いたかったんでしょうか?この資料が作成されたのは1947年。 繰り返し言いますが終戦二年後です。GHQが乗り込んできたのが1945年。隠蔽工作を行うまでに二年もの月日が流れています。

慰安婦制度に問題があるのならGHQが乗り込んでくるまでに隠蔽工作を行わなければ意味がないはずです。何故、1947年に隠蔽が行われたんでしょうか?その二年の間GHQは何をやっていたんでしょうか?
日本政府は何を隠蔽したかったのか、どうして彼女がその隠蔽工作の対象に選ばれたのか・・・・謎が謎を呼びますね。

それと
>この記録は日本軍の慰安婦制度を否認する日本右翼の主張を反駁し

またミスリードしてるし。
「慰安婦制度を否定している」奴なんてほとんどいません。慰安婦はいました。慰安所はありました。
でも「”従軍”慰安婦はいない」と言っているのです。もっと分かりやすく言えば日本国家の命令で女性を拉致誘拐監禁し、慰安婦にしたことはない・・・少なくとも証拠は挙がっていないと言ってるだけなのに・・・「慰安婦制度を否定している」とミスリードですか・・・ヤレヤレ。
まぁ、白馬事件のようなことはあったがすぐに閉鎖されたし、個々の兵隊による事件はあったが、国家命令として行われた事はないです。

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